物語が生まれる時
何かを創る人は恐らくそれがどのようなものであっても、同じようなことを感じるのだろうと思うのですが、一つの物語を書き上げた直後と言うのは、実はとてもいやな時間です。
「物語」という世界に生きる
書いている最中は物語世界の中に文字通り没頭しています。
自分の頭の中だけに存在する架空の世界が、日常を生きている現実世界よりもずっと生き生きとしたものに感じられ、はるかに臨場感が強く、手触りも匂いも音も感じ取れる、リアルなもののように感じられます。
その世界の中に在るとき、わたしという現実世界での自我はとても希薄です。そこに留まっていてはファンタジーの世界に入っていけないので、当然なのですが。
そして、自我を離れている、自我に束縛されていない状態と言うのは――つまり忘我とか無心と言われる状態ですね――とても幸せなんです。言いようもなく幸せ。
まさに「現在(いま)ここに在る」という感覚。
昨日のことも明日のことも思い煩うことなく、時には寝食もそっちのけで夢中になります。トランス状態、あるいはゾーンとかフローなどと呼ばれるものなのでしょう。
魔法が解けたあとには
でも、最後の一文を書き切って『完』と記したその瞬間―――深い満足感と共にその幸せな世界は霧のように消えて行きます。
そして、それに代わってあらゆる煩悩、自我の声が一気に湧き上がって来るのです。
こんなものになんの意味があるのか。
誰が受け取ってくれるというのだ。
おまえのやっていることに価値などあるものか。
世間の迷惑だ、やめてしまえ‥‥‥
それはそれは容赦ないです。
どん底まで突き落とされます。
本当に苦しい思いをします。
もう二度と書けないとも思ったりします。
それはもしかすると、創作中の強い幸福感の反動なのかもしれませんし、あるいは、私たちを常に縛りつけたがる、変化を嫌う脳の仕組みのもたらす作用かもしれません。
いずれにせよ―――
その深~~い落ち込みはそれでも、やがて次第に収まっていきます。何週間かが経つうちに(時には何か月にもなりますが)落ち着いてきて、静かな意識で自分の書いたものに相対することが出来るようになります。
自分の描き出したものがいったい何だったのか、それが解るようになるのは、その時です。
物語の完成
書いている最中は、実は本当の意味では分かっていません。ただそうなるべく在るなにものかを感じ取って書き記しているだけです。
神話や物語を説明する時、メタファー(隠喩)という言葉が使われますが、つまりはそのことなんだろうと思います。メタファーは無意識とか潜在意識と呼ばれる、普段は意識化されにくいところにある深い記憶から生まれてきます。
人物造形においては何らかのアーキタイプ(元型)の現れでもありますが、それは必然的にそうなるべきものであって、それを意図して造形してしまうと、とてもわざとらしい(つまり批判的な意味での類型的な)表現となってしまいがちです。
ですので、作為的に計算してアーキタイプ的な役割を振って物語を動かす、ということはしません。あくまで自然と引き出されてくるなにかの流れの力に委ねます。
自分の物語を、心理的な距離を置いて読むことが出来るようになって初めて、自身で意図していなかったなにものかがそこに描き出されていることに気づきます。
それを見つけ出せた時に、「物語」は完成します。
~スピリチュアル・ファンタジー・シリーズ③「月夢譚」あとがきより~